島村教会

創立明治20年以来120年
島村教会は島村の発展とともに歩んできました

島村教会は1887年、島村の農民信徒によって
島村にイエス・キリストの福音を伝えるために建てられた教会です。

1955年には地域の子どもたちのために、島村めぐみ保育園を開設し、地域社会と共にある教会として受け入れられています。

今から約2000年前のイスラエルにナザレのイエスという方がいました。

イエス・キリストといわれているこの方の教えは新約聖書の根幹となっており、十字架にかけられて死んだ3日後に復活されたとクリスチャンは信じています。

このイエス・キリストのメッセージから学び、日々の生活に活かすことで励まされ、癒しを賜るところが教会です。

私たちはイエス様が復活された日曜日に毎週集まって歌ったり、祈ったり、聖書の言葉から学んだりしています。

また、お茶の時間などを持ちながら互いの支えになり励まし合っています。

キリスト教のことをよく知らない人でも教会は誰でも来ていいところです。ぜひおこしください!

集会のご案内

礼拝は、毎週日曜日午前10時30分より約1時間です。どなたでもご参加できます。

車でお越しの方は保育園駐車場をご利用下さい。

教会に入りましたら、入り口に設置した消毒液で手指の消毒をお願いいたします。その後、案内に従い、隣の方と間隔をあけてご着席ください。

終了後は出口で密にならないよう余裕を持って退出をお願いいたします。

メッセージ

8月30日説教

「真理とは何か」ヨハネによる福音書18章28節~38節

 8月も最後の日曜となりました。昼間の日差しは相変わらずですが、朝晩の吹く風には涼しさを感じることができるようになってきました。この夏を過ごしてきた疲れが出る頃です。皆さんご自愛して過ごしていただければとおもいます。世の中は相変わらず騒がしく、不安になることも多くありますがこんなときだからこそ、神様に頼り祈り求める生活が与えられていることを感謝していきたいと思います。
 さて、今朝の聖書の箇所は、イエス様がローマ総督ピラトの下に送られてそこで尋問を受けるという箇所です。イエス様を捕らえたユダヤ人たちは、大祭司であるカイアファの下でいわゆる宗教裁判を受けさせようとしていました。しかし、ヨハネ福音書記者はカイアファのもとでどのようなやりとりがあったのか、何も語っていません。恐らくその舅であるアンナスとの間で行われた問答と殆ど同じ事がここで行われたのか、それとも実権を握っていたのがアンナスだということを暗にほのめかすために、イエス様とユダヤ当局の間で行われた問答をアンナスとの間で行われたことにしたのかもしれません。そうすることで、この裁判の正当性に疑問を投げかけているのです。
 そんな問題のある裁判を受けた後に、イエス様はピラトのもとに送られます。これは、当時ユダヤを収めていたローマ総督の手によって、イエス様に死刑の判決を出させるためです。ユダヤの最高法院で有罪となってもそれはあくまでもユダヤ教内の問題で、神殿に立ち入りを禁止するとか、ユダヤ教のラビとしての活動を禁止するとか、あくまでもユダヤ教という範囲内での活動制限を着せることができるだけだったのです。しかし、ローマ総督ピラトだったらイエス様をローマへの反逆者として死刑にすることが出来たのです。今風に言えば、民事裁判で済むところを、ローマ総督を介入させることで刑事事件として扱ってもらおうとしているわけです。
 それが、過越の準備の日つまり、金曜日の明け方の出来事だったのです。ここでヨハネは、こんなユダヤ人の態度を「彼らは、自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」と、人間一人死刑になるかならないかという重大に局面に際して、なお、自分たちが汚れるとか、汚れないとかを気にするユダヤ人の身勝手さというか、何を一番大切にして生きているかということを問いかけているのだと思います。
  少なくともここでのユダヤ人たちは、イエス様の裁判の行方よりも今晩日が暮れてから行われる過越の祭に汚れずに参加できるかどうかを、気にしていたのです。
 ユダヤ教の律法において、汚れているか否かは大きな問題です。しかし、今こだわるべきなのは、人の命がどうなるかという事ではないでしょうか。しかし、律法にこだわるユダヤ人たちにはそれが出来なかったのです。8章32節には「真理はあなた方を自由にする」とあります。このときイエス様を拒否したユダヤ人たちは、自ら自由を放棄して律法に縛られる生き方を選んでいたのです。
 どんなときでも律法にこだわりそこから解放され自由に生きることを拒んでいたのです。そしてこの姿は決してこのときのユダヤ人だけではなくわたしたち自身も顧みなければならない姿だと思います。わたしたちはしばしば、日本人はこうあるべきだとか、日本で生きるにはこうしなければならないということを口にします。そしてそうではない人々を差別したり蔑んできたりしました。
 そして今、再びそんな雰囲気がこの社会にあふれているような気がします。その一つに外国人に対する偏見があります。外国人が日本人の仕事を奪っているとか、何かが盗まれたというとすぐに外国人の犯罪だと言い立てたり、待った確かにわたしたちの習慣となじまないところはあると思います。しかし、また今外国人がいなければ粉社会が成り立たなくなっているのも事実です。日本人がやりたがらない、汚かったり、辛い仕事をしてくれている事も事実なんです。また、そういう仕事しか回ってこないから貧困の中にあって、犯罪も犯してしまうのだと思います。それはまた、日本人とか外国人とかいう問題とは違う地平で語られるべきなんだと思います。
 それを、ユダヤ人たちはイエスが具体的にどんな犯罪を犯したかを示すことなく、ただ問題を起こしているからということでピラトに引き渡し、死刑にしようとしているのです。
 このようなピラトとユダヤ人たちとのイエスをめぐるやりとりを、ヨハネ福音書の記者は、<それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった>(32節、新共同訳)と記しているのであります。
さて、33-38節に記されているピラトとイエスの問答の場面は、ヨハネ福音書の独特で興味深い部分です。このピラトのイエス尋問のポイントは、「お前はユダヤ人の王なのか」(33,37節)と問うピラトの言葉によく示されています(四福音書共通)。王とは、この世における政治的絶対権力の保持者です。ローマ皇帝の全権をユダヤにおいて代表している総督ピラトにとっては、王が二人いることは許されません。権力者は常に、自分の地位が対立する力によって奪われることを恐れるからです。「お前はユダヤ人の王なのか」という問いには、権力者であるピラトのいささかの不安がこめられているようにも思われます。
この問いに対して、<イエスはお答になった。「わたしの国は、この世に属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」>(36節、新共同訳)。
イエスは、ローマ皇帝とその総督と並び立つこの世の権力者ではないということです。この世のものではないとは、この世に由来するものではないということです。しかしそのことは、この世を離れて、もう一つ別の世界があるということではなく、この世を超えたものが、神からつかわされてこの世に来た、ということを意味します。この世のものではないかたが、この世に来た、それこそがヨハネ福音書の記者が強調している「言の受肉」の出来事でありました。<言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた>(ヨハネ1:14)と記されている通りです。
ピラトは重ねて問います。<「それでは、やはり王なのか」>(37節、新共同訳)と。このピラトの問に対して、イエスは、今度ははっきり肯定的に答えます。<「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」>(37節、新共同訳)。イエスの王国は真理の王国であり、真理に属する者がその声に耳を傾けると言うのです。イエスの王国は、この世の権力によって保証された王国ではなく、それ自身の力によって立つ、一人の兵隊もなく、一つの武器も持たない、真理それ自身によって成り立つ王国なのであります。イエスは真理の証人であり、いやむしろ真理そのものだということができるのです(ヨハネ8:32,14:6)。
ピラトは、このイエスの答えに反問します。<「真理とは何か」>(38節)。これは人間にとってもっとも根本的な問いであるはずです。しかし、ここでのピラトの問いは、真理とは何かと真面目に求めてイエスに問うたのだとは思えません。ピラトは恐らく心の中でこんなことを考えたのではないでしょうか。
のとは思わなかったのです。そこでピラトは、幾分からかい半分に、イエスの答えの言葉じりをとらえて、「真理とは何か」と問うたのでしょう。
このピラトの問いにイエスが何と答えたかは、ヨハネ福音書には記されていません。恐らくイエスは黙して、もはやこれ以上に何も答えられなかったのではないでしょうか。いやむしろ、この沈黙こそが、イエスの何よりの答えであったのです。ここでの問答は完全にすれちがいに終わっています。ピラトにとって、真理は無用の長物であったのです。
たしかに真理は、明日からのメシの種になるものではなく、手っ取り早くすぐに役に立つというものではないでしょう。それによって安楽で快適な生活が保証されるわけではありません。むしろ前途には多くの困難が予想されます。とすれば、もっと手間のかからない、目に見える実利をもたらしてくれるものにたよった方が確実ではないか、と私たちも考えます。それは、私たちの中にある「内なるピラト」のささやきです。しかし私たちは、真にイエスの弟子となるためには、このような「内なるピラト」のささやきと闘わなければなりません。孤立を恐れて、周囲への同調、適応だけが主な関心となるとき、「真理とは何か」という真剣な問いは失われます。そこからは、事なかれ主義、同調主義、出世主義、への道が通じています。
 そんなこの世の価値観に縛られたわたしたちですが、この真理とは何か、イエス・キリストの福音とは何かを自らに問いかけ、その福音に生きるときわたしたちは、今まで自分自身を縛っていた様々な誘惑、常識、またそれが出来ない劣等感から解放されて本当に自由に、誰とでも対等に差別することも無ければ差別を恐れること無く生きることができるようになるのです。
 ここで<わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます>(Ⅱコリント13:8)というパウロの言葉を思い起こします。イエスが真理であり(ヨハネ14:6)、その真理が私たちを自由にするのであります(ヨハネ8:32)。
私たちキリスト者は、イエスを主として、王、また真理として告白し、信じ従う者であります。イエスは道であり、真理であり、生命であります(ヨハネ14:6)。信仰は心の中だけにある内面的なものにはとどまらず、この世のすべての場所において、イエスが王であり、真理であることを証しするものです。自分の魂の安心立命だけにとどまらず、真理の問題として、政治、社会、世界平和の問題にまで広げて考えなければならないと思います。
 真理であり、王であるイエスは、生においても死においても、私たちの個人的・社会的な全生活を支配する力であります。ポンテオ・ピラトの前に立つイエスの証しから、このイエスを王として、主として信じ従う者のあり方を深く考えさせられます。「真理とは何か」と問われた時、「イエスとそのみ言葉こそ真理である」と答えて、このイエスに従う者でありたいと思います。

神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
神さま、私たちはピラトのように目先の利を求めて、「真理とは何か」とイエスに食ってかかるものを内面にもって生きているところがあります。その意味でピラトとイエスの問答には身に染みるものがあります。
神さま、どうか私たちが「わたしは真理であり、道であり、命である」というイエスに従って、真理を大切に生きていくことができますようにお導きください。
現在の世界は真理に反する資本と権力の横暴によって沢山の人々が苦しんでいます。また、戦争や自然災害によって沢山の人の命が奪われ、生活基盤を失って苦しんでいる人も多くいます。
神さま、私たちに平和をつくり出し、自然との共生を生きる力を与えて下さい。
今苦しみ、悲しんでいる人に、あなたの助けと慰めが与えられますように。
他者のために働く人々を力づけ励ましてください。
今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

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